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探偵社とか、興信所という仕事は、日本ではいつ頃生まれたのでしょうか?
そして、現代に至るまでにどのような変遷を遂げてきたのでしょうか?
今も秘密のベールに覆われた業界なので、昔の資料も少ないですが、わかる範囲で再構成してみました。
少なくとも2つの起源があり、それは探偵社と興信所です。
この2つは元々は全く別のものでした。
岩井三郎事務所
明治28年(1895年)に刑事を退官した岩井三郎氏が興した岩井三郎事務所が、日本初の私立探偵社と言われています。
場所は東京日本橋、現在の高島屋のそばです。
警視庁在任中は、日清戦争(1894-95)当時に外国のスパイ摘発にも実績のあった敏腕刑事でした。
しかし、30歳の時に「日本にも私立探偵を!」という志を立てて退官しました。
何しろ日本で最初の商売で、今のように新しいものをすぐ受け入れる時代でもなかった。
ですから、社会的信用を得るまで10年かかったそうです。
ロマンのある伝説
江戸川乱歩といえば、日本の推理小説の草分けの大作家です。
彼が若い頃に岩井三郎事務所で探偵をしていたという噂/伝説があります。
【江戸川乱歩】
ハードボイルド作家の草分けダシール・ハメットは、世界初の探偵社・ピンカートン探偵社で探偵をしていたとのこと。
参考サイト: ダシール・ハメットの経歴(Wikipedia)
ハメットの小説にはピンカートン探偵社が実名で登場します。
だから、乱歩が岩井事務所に在籍したというのもありそうな話ではあります。
短い期間だが在籍したとか、採用試験に落ちたと書いているサイトもあります。
ただ、私が調べた限り、文献等の証拠は見つけられませんでした。
一方、作品中の名探偵・明智小五郎のモデルは岩井三郎だという説もあります。
仮に乱歩が岩井三郎と直接関係はなかったとしても、報道や噂でその活躍は知っていたでしょう。
創作の参考にしたことは十分考えられます。
ただ、乱歩の創作ノートにそんな記述が残っていたとかいう確証はまだ聞いたことがありません。
外見のモデルは講釈師の五代目神田伯龍だそうです。(「D坂の殺人事件」内の記述より 出典)
光永百太氏?
探偵社は明治22年(1889年)に日本橋の士族・光永百太氏により資本金1000円で設立されたものが最初という記述も見られますが、情報が少なすぎてよくわかりません。
光永百太氏という人物の実在や岩井三郎氏に何かつながりがあるのかどうかも現時点では把握していません。
日本初の探偵社はどんな会社でどんな仕事をしていたのでしょうか?
今残っているわずかな資料からできるだけ再現してみました。
経済・刑事事件から浮気調査まで
この探偵社は、浮気調査が大半の今の探偵社と違って、新聞ニュースになるような事件物も扱っていました。
シーメンス事件
一番有名なのは、「シーメンス事件」の解明に寄与したことです。
これはドイツのシーメンス商会による日本海軍高官への贈賄事件で、政界を揺るがす大スキャンダルでした。
国会議事堂を囲んだ民衆暴動や内閣総辞職まで起きています。
これは政治・経済事件に分類できますが、刑事事件もありました。
後の満州馬賊伊達順之助による射殺事件
中学生が喧嘩で相手を射殺して殺人罪を問われた際に、正当防衛であったことを立証したものです。
順之助は名門華族の家に生まれながら、幼少の頃から荒くれ者で、長じては満州馬賊に。
太平洋戦争中に中国大陸で暗躍した後、敗戦後に戦犯として銃殺されています。
壇一雄の小説「夕日と拳銃」のモデルになった人物です。
ほかにもバラエティに富む事件
岩井三郎事務所に在籍した探偵に取材したノンフィクションには、ほかにも多彩な調査に携わった話が出てきます。
ノンフィクション作家・林えり子氏の「女探偵物語・芹沢雅子事件簿」という本です。
【女探偵物語・芹沢雅子事件簿】
この本は既に廃刊になっており、中古本は入手可能ですが、価格は高騰しています。
幸い、このサイトに要約を収録しているので、読んでみてください。
ほかにも「花王歯磨密造事件」「古河炭鉱詐欺事件」などが知られますが、今ではどんな事件だったのかわかりません。
浮気調査が7割を占める今の探偵社より冒険とロマンに富んでいて、小説や映画に出てくる探偵社に近いイメージですね。
浮気調査や結婚調査も
とはいえ、先ほど触れた本には浮気調査の再現小説もでてきます。
また、同じ事務所の女流探偵・天野光子は、結婚信用調査を専門にしていたとの記述もあります。
だから、現代の探偵社がやるような仕事ももちろんやっていたわけです。
News!
BSフジのテレビドラマ「姑は名探偵芹澤雅子」(主演 池内淳子)は、この人がモデルだと思います。
戦後、日本初の女性の事件専門私立探偵として名声を上げ、引退した人という設定です。
このドラマが史実に基づくのかどうか確認できていません。
先に紹介した「芹沢雅子・女探偵物語」では、戦後に芹澤が岩井三郎事務所に復帰した記述があります。
(確認したければ、要約を読んでください。)
焼け野原の掘立小屋に住み込み、やがて二代目のもとで部下も持つようになった、と。
しかし、その後のことはわかりません。
とはいえ、岩井三郎事務所で経験を積んだ後に独立したというのは、ありそうな話です。
先述の本は著者が、在籍した女流探偵・芹沢雅子本人に取材した上で書いているので、信頼性は高いと思います。
ここに岩井三郎がどんな経営方針を持っていたかという貴重な情報が収録されています。
岩井三郎事務所の経営方針
日本の女性探偵の草分け
上記の方針以外に、男尊女卑の世の中にあって女性を起用した点も興味深いです。
岩井三郎事務所は日本で(たぶん)1番目と2番目の女性探偵を輩出しています。
日本初の女性探偵が天野光子。内偵調査に長け、岩井の事務所では結婚調査を専門に担当しました。
二番目が芹沢雅子。英仏中の3か国語を話し、170cm近い長身でトップファッションの似合う洗練された女性だったそうです。
この2人をテーマにしたYouTube動画を作ってみたので、興味があれば見てみてください。
【天野光子と芹沢雅子(イメージ)】
太平洋戦争で東京は焼け野原になり、岩井探偵事務所もいったん閉鎖になりますが、戦後再興します。
初代岩井三郎は隠居し、息子の英夫氏が所長に。
このいきさつも先ほどの本に出てきます。
別の情報によると二代目は弁護士との兼任だったとのこと。
すると岩井三郎氏の息子の英夫さんは弁護士と探偵の二刀流だったということでしょうか?
しかし、林氏の本では「英夫氏は事務所再興後にサラリーマンをやめて経営に専念」という記述が出てきます。
すると息子は経営者で、二代目を襲名した探偵が別にいたのでしょうか?
あるいは事務所として二代目を名乗っているだけで、特定の人物のことではなかったのか?
今のところ、よくわかりません。
【日本橋 昭和31年(1956)】
三代目岩井三郎事務所
岩井三郎事務所は3代続き、3代目を襲名したのは自衛隊出身の坪山晃三・元3等陸佐。
冷戦時代に自衛隊の情報部門を担った方です。
この方が三代目岩井三郎事務所を継承し、後に自らが経営する(株)ミリオン資料サービスと合併しました。
有名な軍事ジャーナリスト黒井文太郎氏がAERA誌に寄稿した下記の記事をお読みください。
ミリオン資料サービスは韓国の政治に関わる大きな仕事を受注していたようです。
その件に関し、黒井氏は事件後36年を経て75歳になった坪山氏にインタビューもしています。
とにかく、浮気調査ばかりやっているような平凡な探偵社ではなかったようです。
坪山氏の名を始めて知ったのは、(株)ミリオン資料サービスの社史で、顧問の肩書で出ていました。
社長だったが引退して顧問になっておられたのでしょう。
その後、死去されたことが同じく顧問をされていた他の探偵社のホームページなどで確認できました。
ミリオン社は法人としてまだ存在しているようですが、以前あったホームページはなくなっています。
News!
TBSのテレビドラマ「VIVANT」に自衛隊の情報部隊「別班」が登場し、世間で話題になっています。
公式組織図にないスパイ組織で、海外に出張して情報収集に当たることもあります。
世間では存在が疑われていましたが、実在するようで、本も出ています。
「自衛隊の闇組織-秘密情報部隊『別班』の正体」 石井 暁 著 講談社現代新書
これこそ、三代目岩井三郎こと坪山晃三が所属していた組織です。
1973年、韓国の金大中(当時、大統領選の野党候補)が東京で拉致される事件が発生。
このとき拉致のため張り込みを担当した興信所の所長で、元3等陸佐の坪山晃三が、「別班」メンバーだったーー
評論家の藤島宇内がそう指摘したのです。(『週刊現代』1973年10月18日号)。
坪山氏の名前は現存する他の探偵社数社にも顧問や発注元として名前が挙げられており、多くの人を育てたことが伺われます。
参考サイト: ダルタン探偵社代表の経歴
参考サイト: ISマツダ事務所のお知らせ
岩井三郎事務所・三代に渡って、ここで修行して独立した探偵、指導を受けた探偵は多かったと思われます。
岩井三郎事務所は間違いなく、日本の探偵業界の大きなルーツのひとつでしょう。
今日の探偵業のもうひとつの大きなルーツが興信所です。
興信所とはもともとは企業の信用調査サービスで、今日の帝国データバンクや東京商工リサーチに相当します。
「この会社に倒産の危険はあるか」、「取引して大丈夫か」、という疑問に財務データをはじめとする判断材料を提供するサービスです。
明治時代に入り、「殖産興業」のスローガンのもと、多くの企業が起業しました。
しかし、信用状態がわからないことがしばしばスムーズな取引の障害になっていました。
そこで、料金を支払えば誰でも相手企業の信用状態が調べられる興信所が必要になったのです。
銀行主導の興信所
日本の資本主義初期の興信所は、まず銀行をバックに財界主導で作られました。
外山脩造と商業興信所
日本で初めての興信所は、明治25年(1892年)に大阪で開業した商業興信所です。
外山 脩造(とやましゅうぞう)という人物が関西の銀行30行の協力を取り付けて設立しました。
日銀の初代大阪支店長、阪神電鉄初代社長であり、新潟生まれながら関西財界の父とも呼ばれた人物。
阪神タイガースの生みの親でもあるとか。
【外山脩造氏】
海外の経済視察で信用調査機関の必要性を痛感したのが、設立の動機だったそうです。
この設立には盟友の渋沢栄一も関わっていたようで、同氏の記念財団のホームページにも名前が出てきます。
渋沢栄一と東京興信所
続いて明治29年(1896年)に東京興信所が設立。
これも日本銀行はじめ銀行グループの出資で作られました。
中心になったのは、日本の資本主義の父・渋沢栄一氏です。
近年の人気テレビドラマにも登場したので、ご存じの方も多いでしょう。
【渋沢栄一氏】
このように誕生当初の興信所は、浮気調査や見合いのための身辺調査をするために作られた会社ではなかったのです。
明治の財界の超大物が関係した経済機関が、どこでどう探偵業とつながるのか?
それは後で話します。
戦時中に東亜興信所に統合
商業興信所と東京興信所は、昭和19年(1944年)に統合されて東亜興信所となりました。
太平洋戦争末期なので、普通の興信所の仕事はほぼなかったはずです。
業務縮小、存続のための合併だったのかと思いますが、どうだったのでしょうか?
戦後、ビジネスホテルに転業?!
東亜興信所は戦後ビジネスホテル業に進出し、平成4年(1978年)に(株)サン・トーアに社名変更。
調査業務から完全撤退してホテル運営専業になった後に、他社に買収されました。
ホテルは今も東京に存続しています。
この風変わりな歴史は現在このホテルを所有している企業の公式社史に記されています。
参考サイト: サムティホテルマネジメント株式会社社史
https://www.samtyhotel.com/history.html
(このページは現在は削除されています。)
日本初の興信所が銀行主導で作られてから8年後、現在誰もが知る民間興信所の前身が登場します。
帝国データバンクの前身が起業
日本に政府主導の興信所が2つしかなかった明治33年(1900年)に、後藤武夫という人物が民間興信所を設立しました。
その名は帝国興信社。2年後には法人化して帝国興信所に改名します。
これは現在、企業の信用調査を行う大手・帝国データバンク(TDB)の前身です。
無謀すぎる創業
設立に当たって、後藤氏は明治の経済界の重鎮・渋沢栄一に援助を求めに行ったそうです。
しかし「今はまだ民間で興信所は無理だからやめておきなさい」と止められたとか。
このエピソードは帝国データバンクの公式社史に出ています。
渋沢栄一は、東京海上・東京ガス・京阪電気鉄道・キリンビールなど500以上の大企業の設立に関わった、日本資本主義の父とも呼ばれる人物で、東京興信所の設立にも重要な役割を果たした人です。
経済の未来は的確に読める方でした。
渋沢氏の予言通り、帝国興信所に当初はまったく調査の依頼が来ず、経済専門誌の発行でしのいでいたそうです。
転機到来で日本一に
しかし、日露戦争の勝利の後の好景気に企業設立ブームが訪れ、企業信用調査の仕事が一気に増えました。
関東大震災で本社が全壊する危機を乗り越えて、大正15年(1926年)には全国に54の拠点を持つ日本一の興信所になります。
戦後はコンピュータ導入で大発展
戦後、日本は高度成長期を迎え、企業信用調査市場の増大とともに帝国興信所も成長を続けます。
特に今日の大発展につながったのが、三代目社長・後藤義夫氏による業界に先駆けたコンピュータの導入です。
時はなんと1968年(昭和43年)。
コンピュータはまだ著しく高価で低性能、経営への応用など絵空事と考える経営者が多かった時代。
そろばんが就職に役立つと考えて子供に習わせる親もまだまだ多かった時代です。
おそるべき先見の明だと思います。
個人調査も業務範囲内
企業の信用調査から始まった帝国興信所ですが、雇用調査・結婚調査などの個人を調査対象にした探偵業務も行っていました。
昭和以前は採用予定者や結婚相手の身元調査を興信所に頼むのは普通のことでした。
帝国のような大手と違い、中小の興信所では個人調査の方が比率が高いところも多かったのではないかと推察します。
すると一般人には、企業信用調査業として始まった興信所が探偵社とよく似たものに見えてきます。
社名変更とともに企業信用調査専業に
しかし、1981年に帝国データバンクに社名変更した後は企業信用調査に絞り込んでおり、現在はこの会社を興信所と呼ぶ人はいません。
参考サイト: 帝国データバンク(Wikipedia)
参考サイト: 帝国データバンク資料館
帝国興信所の末裔?
ちなみに現在も帝国○○を名乗る探偵社・興信所は複数あり、歴史の長い会社様もあります。
しかし、TDB以外は後藤武夫の帝国興信所との関係を確認できていません。
後藤武夫の帝国興信所のDNAを受け継ぐ探偵社か?
後藤武夫の帝国興信所とは別だが、「帝国」を冠した本当に歴史の長い会社なのか?
あるいはTDBへの改名で「帝国興信所」の商標に空きが出た機会を生かしたのか?
機会があれば是非取材してみたいものです。
さて、現在の企業信用調査市場は2社が圧倒的シェアを持つ寡占市場です。
帝国データバンクが60%、東京商工リサーチが20%とも言われています。
この東京商工リサーチも前身は明治25年(1892年)創業の商工社という興信所です。
これはなんと、銀行主導の日本初の「商業興信所」と同じ年ですね!
下記の年表にも両興信所の設立が同じ年で記されています。
帝国興信所の時でも渋沢氏に「民間はまだ早い」と言われたのに、このタイミングで起業するのはすごい冒険心です。
創業者は白崎敬之助氏。
昭和8年(1933年)に株式会社東京商工興信所に社名変更しています。
この会社がどの程度、個人対象の調査をやっていたのかは情報がなくて不明です。
しかし、昭和以前は採用予定者の身元調査を興信所に頼むのはごく普通のことでしたから、少なくともそれはやっていたと思います。
ここまでの説明で、明治の探偵社と興信所が現代の探偵業の起源だと言いました。
しかし、江戸時代以前にも個人調査を請け負う人はいた可能性があるのではないかと思います。
専業ではなかったかもしれませんが。
例えば、結婚相手の近所で親が評判を聞いて回る「問い聞き」という慣習があります。
10年ほど前までは、一部の田舎に行くと「問い聞きお断り」の看板が立っている地域がありました。
この看板が撮影されたのは広島県ですが、今もあるのでしょうか?
若い人には「問い聞き」も死語になっているのではないかと思います。
さて、結婚相手の実家が遠方の場合や裕福な人たちは、自分で問い聞きをせず、人に頼むことが多かったはずです。
そういう仕事を請け負う人は、もしかしたら江戸時代より前からいたかもしれません。
例えば、鼻の利く行商人のアルバイトとか。
根拠になる資料がないので何とも言えませんが、機会があったら歴史学者に聞いてみたいものです。
あと、江戸幕府が全国に放っていた密偵も、広い意味では探偵の源流になっているのかもしれない・・・
いや、ロマンチックな空想に走りすぎたようです。
やはり日本の探偵業の幕開けは明治時代です。
話を現実に戻しましょう。
ベテラン探偵・小原誠さんの著書(※)によると、戦後の探偵業界の動きはおよそ下記のとおり。
※『探偵裏物語 -調査する側される側、それぞれの裏事情』 バジリコ、2008年。ISBN 4862381049
まず、戦前からあった興信所は、終戦直後は、主に戦争によって行方不明になった親族、隣人、債務者を探したり、記録が焼失してしまった土地の権利関係を調べる仕事をしていました。
その後、企業の信用調査、採用調査などを請け負うことが多くなっていきました。
一方、いつの頃からか探偵社というものも生まれていて、失踪人調査、良縁(結婚)調査、浮気調査など、個人的問題の解決を主に請け負っていました。
(林えり子氏の著書(※※)には、終戦直後に特高崩れや大陸帰りの軍事探偵崩れなどがいいかげんな探偵業を開業する例が多かったとあるので、それと符合する記述です。)
調査会社という名称が増えてきたのは、企業からの調査依頼が急増した昭和40年代以降だそうです。
高度成長期、バブル期、バブル崩壊後の長い経済停滞期。
その期間を通して日本の探偵業は発展を続けます。
そして2007年の探偵業法の成立が時代を大きく変えました。
この法律により、今日の近代的で安全な探偵業界が実現されました。
悪徳探偵の社会問題化
昭和の終わりから平成の前半にかけて、探偵の業者数はどんどん増えて、悪徳業者が目立つようになりました。
ろくすっぽ調査せずに法外な料金をふっかけたり、調査で得た個人の秘密情報を売ったり、それをネタに恐喝したり。
さらにはバックに暴力団がいる探偵社も多かったようです。
下記の記事は、探偵業法成立前夜の悪徳探偵の被害事例集です。
この頃の探偵業界がいかに危険でひどかったかわかると思います。
思えば、明治時代に日本に探偵業が誕生して以来、探偵を規制する法律は何もありませんでした。
もちろん住居侵入や脅迫を行えば罰せられますが、探偵だけを直接対象にした法律は皆無でした。
100年以上の長きにわたってです。
野放しの状態で数が増えれば、当然ながら質は落ちていきます。
探偵規制立法への強い抵抗
悪徳探偵は社会問題にまでなっていましたが、いろいろなハードルがあって、役所も警察も規制には及び腰でした。
探偵業法立法を率いた葉梨議員の著書は、立法までの経緯も紹介しています。
特に強かったのが、「これは実は探偵を口実にして言論の自由を弾圧する法律なのではないか?」という根強い疑いです。
浮気調査や身元調査が制限されるだけでなく、新聞記者や学者の調査も制限されるのではないか?
政治家や有力者に都合の悪い調査は何でも探偵行為にくくられて規制されるのではないか?
そういう思いから反対がとても根強かったのです。
ほかには、お役所など規制をかける側で探偵の仕事を理解している人がほとんどいなかったこと。
法律を作ることで逆にお墨付きを与えてしまうのではないかという懸念、なども立法化の障害でした。
議員立法へ
そこでついに国会議員が動き、議員立法の形で探偵を規制する初の法律が作られます。
中心になったのは、後に法務大臣にもなった葉梨康弘衆議院議員です。
彼は数々の苦難を乗り越えて、日本初の探偵規制の法律を作りました。
平成18年成立、翌19年施行の「探偵業の業務の適正化に関する法律」、通称「探偵業法」です。
この法律は簡単に言うと、悪徳探偵の被害を防ぐ法律です。
消費者(依頼者)の利益と調査される側の人権の保護を目的としています。
探偵業は届出制になり、契約方法をはじめさまざまな規定や活動制限が設けられました。
これ以降、探偵への依頼はずいぶん安全なものになりました。
以上の経緯は、著書の「探偵業法」に詳しく述べられています。
【葉梨康弘著「探偵業法」】
残念ながら廃刊で、中古本は高騰しています。
幸い、当サイトにかなり詳細な要約を収録しているので、興味がある方は下記のリンクをどうぞ。
「法規制強化で悪徳探偵が消えたことが自社の自然な成長につながった」という話は、ある大手探偵社へのインタビューでも聞かれました。
今日、探偵社と興信所という名称で仕事の違いはあまりありません。
イメージ的には、浮気調査は探偵社、人探し・結婚調査・身辺調査などは興信所と思う人もいます。
こっそり調べるのが探偵で、身分を明かして聞きこむのが興信所と説明しているサイトもあります。
しかし、実際にはそんな線引きはありません。
今まで取材した探偵社の方も、両者に特に違いはないと回答されていました。
(このサイトには探偵社への取材記がたくさん含まれています。楽しんでください!)
浮気調査(平均で仕事の7割)と人探し(平均2割)をメインにその他の個人向け調査も行う。
それが探偵社であり、興信所です。
むしろ、個々の業者によって得意分野や流儀が異なると捉えるべきでしょう。
今日では同義語、そして「探偵」の方がメジャー
2つの言葉は、遅くとも平成後期にはほぼ同義語になったとと思います。
令和に入ってからは、興信所は死語になりつつあるような気がします。
若い世代は知らないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
探偵社=興信所。
これと区別すべきなのは企業の信用調査やマーケティング調査などの企業向けサービスをやっている会社です。
企業信用調査を興信所とはもう言わない
企業の信用調査は、帝国データバンクと東京商工リサーチの2社でシェア8~9割の寡占業界です。
この2社を興信所と呼ぶ人は今日まずいないと思います。
しかし、今挙げた2社こそが興信所であったことは、すでに見たとおりです。
「興信所」とはもともとは、企業信用調査業のことでした。
この言葉は、歴史に最初に登場した時の意味をほぼ完全に失ったのです。
二刀流の探偵社は少ない
企業向け調査と個人向け調査の両方をかなりの比率でやる探偵社は、ごく少数です。
一般の探偵社・興信所は浮気調査7割、人探し2割で、企業からの依頼は数パーセント以下です。
この場合、企業向け調査といっても取引先の信用調査より、人事回りの泥臭い調査がメインのことが多いです。
つまり採用予定者の身辺調査や不正社員の行動調査などです。
企業案件をもっと幅広くやろうと思うと、会計や法務などさまざまな知識が必要になってきます。
しかし、二刀流的な打ち出しをしている会社もあるにはあります。
取材できたらこのサイトにレポートを公開するので、楽しみにしていてください。
現代の探偵はスマホやアプリを駆使します。
撮影はビデオで撮り、静止画を切り出し、写真と動画ファイルで納品するのが標準になっています。
しかし、そんなものがなかった時代はどうしていたのでしょう?
スマホもネットも24時間営業のコンビニもなかった時代。
フィルムカメラで浮気の証拠写真を撮っていた時代。
当時を知る探偵たちの貴重な座談会を収録しています。
ぜひ楽しんでください!
日本初の探偵社は上記のとおり、1895年創立の岩井三郎事務所です。
米国初の探偵社はそこから半世紀近く遡る、1850年創立のピンカートン探偵社です。
そして、世界初の探偵とされるのが、19世紀前半開業のフランスのフランソワ・ヴィドック。
世界の探偵の歴史を超特急で見てみましょう。
フランソワ・ヴィドック
1775生-1857没のフランス人です。
人生の前半は犯罪者として服役を繰り返す人生を送りました。
多くの犯罪者と知り合い、暗黒社会の裏表の情報・犯罪の手口に精通するようになりました。
やがてその知見を活かしてパリ警察の密偵に。
多くの手柄を立てて、国家警察パリ地区犯罪捜査局の初代局長になります。
これはパリ警視庁の前身です。
引退した後、私立探偵事務所を開設し、世界初の探偵になりました。
犯罪者⇒警察⇒探偵という、波乱万丈の生涯を送った人です。
著書「ヴィドック回想録」は、エドガー・アラン・ポーやアーサー・コナン・ドイルに大きな影響を与えました。
彼を主人公とする映画がこれまで3本制作されています。
ピンカートン探偵社
同じ探偵社といってもピンカートン探偵社はFBIのような業務からスタートしており、日本をはじめ他国の探偵社とは全く違います。
そこには、19世紀以前の米国は州を越えた全国的な中央集権的な警察、現在のFBIのようなものが未整備だったという特殊事情があります。
産業革命が波及し、大陸横断鉄道が開通して、全国的な人の動きが激増していたのに、そういうものがなかった。
州の独立性を重んじ増税を嫌う気風が、必要性が増す一方の全国警察の整備を妨げてもいました。
そのニーズを満たすことで急成長したのがピンカートン探偵社だったのです。
その存在はコナン・ドイルなど有名推理作家の小説にも登場し、何本ものハリウッド映画が作られたほどで、20世紀初頭の名声は世界的なものでした。
列車強盗や銀行強盗を捕まえたりもしましたが、スパイを送り込んで労働運動を妨害したり、悪どいこともたくさんしました。
興味がある人は、このサイト内の下記の記事を読んでみてください。
シネマライブラリ
探偵は多くのエンターテインメント作品のテーマになってきました。
江戸川乱歩の小説、自衛隊別班をテーマにした「VIVANT」、フランソワ・ヴィドックやピンカートン探偵社を取り上げた諸作品など、上記の記事に出てくるものだけでもつながりの深さが伺えます。
『シネマライブラリ』は、ドキュメンタリー専門の独立系映画会社「株式会社Rim Entertainment」が運営する映画メディア。
探偵ものの作品も沢山あるので、お楽しみください。