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桶川ストーカー事件は、ストーカー規制法ができるきっかけになった事件です。
ストーカー事件は長らく「痴情のもつれ」という謎の警察用語で片付けられ、傷害や殺人に発展するまで放置されていました。
そもそも警察が先手を打てる法律がなかったのです。
しかし、この事件をきっかけに「もうこれ以上先延ばしにはできない」という空気が、世間・警察・政治に生まれ、規制法の立法が実現しました。
想像を絶するストーカーとそれを支える人物たちの凶悪さ、そして同じく想像を絶する警察の腐敗と怠慢さ。
それらの化学反応によって生まれたおぞましいこの事件の概要を紹介します。
1999年(平成11年)10月26日、埼玉県桶川市のJR駅前で女子大生が以前交際していた男の手下に刺殺された事件です。
男と女子大生はゲームセンターで知り合って交際していましたが、その後に異常な性格が露呈していったため、女子大生は交際を断りました。
実は風俗店経営者だった男はストーカーの本性を現し、手下を使って女子大生の家族を巻き込んで激しい嫌がらせを行いました。
その後、プレゼントを全部返送されたことに怒った男は、手下に大金を渡して女子大生の殺害を命じます。
女子大生が刺殺され、警察の捜査が始まると、男は北海道に逃れ、湖で自殺しました。
殺害に関与した手下4人は無期懲役(刺殺した男)から懲役15年の刑が確定。
一方、埼玉県警上尾署の対応が極めて杜撰だったことが、週刊誌「FOCUS」と報道テレビ番組「ザ・スクープ」によって暴かれました。
3人の懲戒免職を含む15人の処分者を出す警察の一大不祥事にもなりました。
国会でも取り上げられ、事件の翌年にストーカー規制法が議員立法で作られました。
その一方、報道番組でコメンテーターの憶測に基づく談話が垂れ流されました。
被害者と遺族がいわれなき風評被害に遭った報道被害の側面からも悪名高い事件です。
交際開始から訣別まで
1999年1月、被害者の女子大生は加害者の男Aとゲームセンターで知り合い、交際を始めました。
Aは偽名を名乗り、外国車のディーラーと称していましたが、実際は風俗店の数店経営するブラックな実業家でした。
交際が深まるにつれてブランド品のプレゼント攻勢が加速、女子大生は違和感を抱くようになります。
クレジットカードから偽名が発覚し、ほかにも不審な点が出てきたほか、Aは感情的で攻撃的な態度をしばしば見せるようになります。
Aのマンションを訪れた時にビデオカメラが仕掛けられているのを問いただした時、Aは激昂して脅迫し、女子大生は明確に危険を認識しました。
遺書まで書いた上で別れ話を切り出しましたが、Aは家族に危害が及ぶことを示唆しながら、交際の継続を要求しました。
Aは事前に興信所を使って家族の情報を入手していたのです。
Aは家族への攻撃を恐れて交際を継続しますが、心身ともに疲弊していきました。
そして、ついに限界に達して訣別を告げ、初めて母親に事情を話しました。
ストーカー行為の激化
その夜、Aと仲間が3人で家に押し掛けてきて脅迫している最中に、父親が帰宅します。
なんとか3人を返した翌日、家族は上尾署に被害を訴えに行きました。
しかし、警察は取り合おうとしませんでした。
家族はAにプレゼントを返送しますが、これでAの怒りが決定的に燃え上がりました。
後の刑事裁判で、この件が殺意を抱くきっかけになったことが明らかになります。
以後、嫌がらせが激化しました。
無言電話、近所の徘徊、そして女子大生の顔写真入りの誹謗中傷チラシが自宅近所、学校、父親の勤務先に大量に撒かれました。
警察の怠慢
母親の訴えに応じて上尾署は実況見分もしましたが、刑事告訴は当日受理せず、後日の受理となりました。
ところがその後、警察官が刑事告訴を取り下げるよう説得にきます。
母親は頑として応じませんでしたが、女子大生はAが警察に手を回したと考えました。
「警察はもう抱きこまれている。助けてもらえない。」と絶望しました。
女子大生の組織的・計画的殺害
一方、Aの女子大生殺害計画は組織的・計画的に進行していました。
元暴力団の男が2千万円の報酬で実行を引き受け、チームで犯行現場の下見などもします。
Aはアリバイ作りのため、沖縄に飛びます。
当日、殺害実行役、輸送役、見張り役のチームで現場に行き、女子大生殺害を実行しました。
被害者は病院に運ばれましたが、大量出血によるショック死でほぼ即死と推定されました。
警察は母親を殺害現場に呼んで事情聴取しましたが、病院に行かせたのは死後何時間も経ってからでした。
犯行グループの逮捕と首謀者の自殺
事件から約2か月後に殺害の実行犯4人が相次いで逮捕されます。
3カ月後にはAが北海道の屈斜路湖で水死体で発見され、自殺と断定されました。
遺書には、被害者と家族への怨嗟、マスコミへの怒り、冤罪の主張が綴られていました。
悲惨な報道被害
事件発生後、犯人の情報が乏しかったこともあって、取材は被害者と家族に集中しました。
被害者の所持品の中にブランドものがあったという警察発表から憶測が拡大。
被害者はブランド好きの軽薄な女子大生というイメージが週刊誌やワイドショーで語られるようになりました。
一部では被害者は風俗のアルバイトをしていたという報道までありました。
コメンテーターたちは「凶悪な事件だが、被害者にも問題はなかったか」ということを繰り返し語りました。
被害者と家族の名誉はどん底まで貶められました。
事件の全貌が明らかになった後では、何の根拠もない悲惨な報道被害の実例だったと認識されています。
警察の問題を暴露
一方で、追及されぬままで終りそうだった警察の怠慢と隠蔽体質を暴いたのも報道でした。
事件の翌春1月から週刊誌「FOCUS」は上尾署の捜査対応の追及を開始。
被害相談への怠慢な対応ぶり、告訴取り下げ要請、Aの指名手配の遅さなどを報道しました。
テレビ朝日の報道番組『ザ・スクープ』でキャスターを務めていた鳥越俊太郎は『FOCUS』の記事に強く反応。
この事件の背景に警察組織の問題があることを確信し、取材とテレビ報道を強化します。
この中で警察の怠慢、隠蔽体質、臆面もない改竄行為が明らかにされました。
『ザ・スクープ』を見た民主党議員が国会で警察庁長官と同庁刑事局長に質問を実施。
国会レベルでこの事件に注目が集まり、ストーカー規制法の議員立法の動きが急加速します。
県警もこれに呼応して内部調査を開始、完了後に家族の言い分を大筋で認めて謝罪します。
3人の懲戒免職と12人の減給・戒告処分も行われました。
ただ、その後に国家賠償請求訴訟が始まると県警の態度は責任回避に一転しますが。
1999年暮れにこの事件が発生し、上記のような経過を辿ってから、ストーカー問題の深刻さが世間に浸透しました。
国会でもこの事件を契機に「ストーカー行為等の規制等に関する法律」(通称 ストーカー規制法)が議員立法され、2000年(平成12年)11月24日に施行されます。
その後この法律は3回の改正を経て現在に至ります。
桶川ストーカー殺人事件以前とは違い、ストーカーの被害に遭った場合、今では警察にかなり守ってもらえるようになっています。